<相談事例>Kさん(後編):化学物質過敏症の労災裁判の闘い
機関紙「安全と健康 Safety and Health」に掲載している「相談から」の記事の抜粋したものを紹介します。記事の内容は掲載時のものになります。
私は、病名「化学物質過敏症」で労災が認められるよう、「特定非営利活動法人 東京労働安全衛生センター」様の支援を受けて闘っています。今回は2度目になりますが、私の「声」を「安全と健康」誌に掲載していただく機会をいただきました。前回(2022年9月号掲載)は、花王(株)での業務で化学物質過敏症を発症した経緯、会社への損害賠償請求訴訟で勝訴したこと、しかし労災請求(休業補償)が認められず再審査請求中であること、労災請求の不支給決定処分取り消しを求めた行政訴訟を提起したこと等について書かせていただきました。今回はその続報をお伝えしたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
1.簡単な経緯
私は、花王(株)和歌山工場で化学製品・原料の検査分析の業務に従事していましたが、違法な作業環境での業務を強いられ有機溶剤中毒を発症し、更に悪化して化学物質過敏症に罹患しました。仕事は、2010年11月から休職し、2012年10月に退職しました。現在も就労可能な状態まで回復するには至っていません。
会社に対し、損害賠償請求訴訟(2013/9~2018/7)をして、違法性が認められ勝訴しました。
2013年7月に、病名「化学物質過敏症」で労災保険休業補償給付の申請をしましたが、和歌山労働基準監督署(以下「和労基」)はこれを2017年9月に「不支給(業務外)」と決定しました。この間、請求時効(2年)対応のため、第2回、第3回の後続請求をしました。
この決定を不服として、2017年12月に審査請求をしましたが、2021年7月に「請求棄却」の決定がされました。この間、請求時効対応のため、第4回、第5回の後続請求をしました。
審査請求の決定を不服として、2021年8月に再審査請求をしましたが、2022年9月に「請求棄却」の裁決がされました。
この不支給処分の取消しを求め、2022年8月に東京地裁に提訴しました。2024年3月に、原処分を違法として労災請求を認める判決がされました。この間、請求時効対応のため、第6回後続請求をしました。
被告の「国」は、地裁判決を不服とし、2024年3月に東京高裁に控訴しました。
控訴審は、2025年1月に判決があり、地裁判決を取り消し、請求を棄却するとしました。この間、請求時効対応のため、第7回後続請求をしました。私は、高裁判決を不服として、2025年2月に最高裁判所に上告しました。現在係争中です。(※第2回から第6回の後続請求は「不支給(業務外)」と決定されています。第7回請求は申請から半年近くが経過しますが、連絡はありません。)
第6回後続請求が、審査請求終了後の申請となったため、2023年6月に2度目の審査請求をしましたが、2023年11月に「請求棄却」の決定がされました。
この審査請求の決定を不服として、2024年1月に2度目の再審査請求をしました。東京地裁判決も提出しましたが、労働保険審査会はこれも無視し、2024年9月に「請求棄却」の裁決がされました。
この不支給処分の取消しを求め、2025年3月に和歌山地裁に提訴しました。現在係争中です。
1.この労災裁判の意味
(1)裁判を提訴した動機
労災認定において、「国」(担当省庁は厚生労働省)は「化学物質過敏症」という傷病を否定し続けています。このため、私達「被災労働者」は正当な権利を侵害され、多くの人は生活が崩壊しています。私は一人の患者として、この不当な状況を打破するために出来る事を模索し、支援団体や弁護士、専門医とも相談し、「裁判で勝訴を積み重ねるしかない」との結論に達し、実行しました。
当初はまだ、「化学物質過敏症」という病気が公に認められていない状態でしたので、まずは「裁判で化学物質過敏症が認められる」ことを目標にしました。現在では、多くの方々の努力と犠牲により勝ち取った判決の積み重ねから、裁判で化学物質過敏症が否定されることはほぼ無くなりました。
次のステップとして、「労基署が化学物質過敏症の労災を認める」ことを目標に、色々と奮闘してきましたが、現体制の厚生労働省では、まず無理だと感じています(後述します)。しかし、裁判では正当な主張が認められます。(そうではない裁判官もいますが。)正しい主張をもって闘いつづければ、中皮腫などのアスベスト被害の事例のように、いつか化学物質過敏症の労災が認められる時代が来ると信じています。
(2)労働基準監督署(国)の対応
労基署の対応は本当に酷いものでした。覚悟はしていましたが、予想を遥かに上回る酷さです。
労災の認定において、「調査の結果、不支給(業務外)と判断した」のであれば理解もできます。しかし本件の場合は、まず「化学物質過敏症は不支給決定」ありきで、後から理由を無理やり捻り出したようにしか見えません。和労基は決定までに4年以上の時間を費やしていますが、関係資料の徴取は最初の半年でほぼ完了しており、3年ほど何の進展もなく、最後の半年で急遽「請求人が有機溶剤をばく露した量は少ない」とする推定資料を捏造し、「有機溶剤中毒の発症が認められない。よって化学物質過敏症を発症していない。」として不支給処分を強行決定しました。この決定に、同じ和労基が会社の当該作業環境が違法だとした「是正勧告」の採用を強く拒否したことは明らかな不正です。
審査請求では、和労基が試算した「有機溶剤のばく露推定量」が事実ではないことを説明し、審査官はそれを認め「有機溶剤中毒を来すほどのばく露は見られない。」という認定を取り消しました。しかし、「クロロホルム中毒は麻酔作用や肝腎障害を伴う」、「自覚症状に他覚的所見が見られない」、「有機溶剤中毒の鑑別診断を行っていない」、「有機溶剤取扱業務を離れても症状が継続している」等の新たな理由から、「相当量の有機溶剤をばく露したことを否定しないが、有機溶剤中毒の業務起因性を認められない。」として、不当に「請求棄却」の決定をしました。
再審査請求では、「有機溶剤中毒を発症したこと」「業務起因性が認められる事」を説明しました。しかし、労働保険審査会はこれらの議論とは全く別の理由で「請求棄却」と裁決しました。原告が有機溶剤を取扱う業務をした期間(平成5年から13年まで)に有機溶剤中毒を発症した可能性を認めたにも関わらず、「平成13年までに発症した有機溶剤中毒は判断を左右しない。」という、発症原因を切り捨てる不当な裁決をしたのです。また、「化学物質過敏症という病症は認められない。」という、近年では認められなくなった理由を強く主張しています。
このように、「国」は不支給決定の「理由」を次々に変えています。全くキリがありません。本件の「国」側の主張、発言、態度からは「是が非でも化学物質過敏症の労災認定を認めない。」という強い意志、執念のようなものが垣間見えます。なぜ、そのように敵視した考えに固執するのか理解に苦しみます。
(3)判決と解説
第一審(東京地裁)で、被告の「国」は、「推定ばく露量が少ない」「有機溶剤中毒の発症否定」「業務起因性の否定」「化学物質過敏症の否定」これまでの全てを理由として主張し、審査請求、再審査請求の判断を無意味なものにしました。裁判で「国」は、御用学者の意見書を乱発して、不合理な主張を展開し続けましたが、これらの主張は何一つ認められず、第一審は「不支給決定処分の取り消し」が認められる勝訴判決になりました。
被告の「国」(実質、厚労省の意見)が、化学物質過敏症の「ICD-10」及び「標準病名マスタ一」の登録について、『しかしながら、原告がいう「化学物質過敏症」は、ICD-10に傷病名として分類されていない。仮に「化学物質過敏症」がICD-10に傷病名として分類されているとするのであれば、原告は、そのことを明らかにする証拠を提出されたい。』などと言い出した事には、呆れるしかありませんでした。厚労省のシステムで検索して次の準備書面で「証拠を提出」したら黙ってしまいました。
個人的な見解ですが、第一審判決の特徴は、「有機溶剤中毒の業務起因性が認められる」「有機溶剤中毒の認定基準に合致する」「病状が継続している」ことから業務起因性が認められた点と、「業務での発症が明らかで、病状が継続していることから、現在「化学物質過敏症」に悪化したかを判断する必要は無い。」と判示した点にあると考えます。これは、再審査請求裁決の全く逆の判断になります。
第二審(東京高裁)で「国」は、「主位的な主張である業務起因性に関する一審被告の主張が認められないおそれが明らかとなったため」として、新たに予備的主張「一審原告の有機溶剤中毒は治ゆしている。」という理由を追加しました。つまり、第一審で国の不支給処分が違法として取り消された初回から3回目までの休業補償給付(2011年7月~2017年6月まで)の期間は症状固定後の請求だから認められないというのです。
この事からも、「国」は不支給とする理由があって処分を決定したのではなく、不支給にするため理由を後付けしているのだと確信しました。もう、そのような不正を隠すことすらしなくなりました。
この「予備的主張」の内容は、第一審判決を誤用して「原告の病状は有機溶剤中毒」と論点をすり替え。専門医の「化学物質過敏症の診断」を「有機溶剤中毒の診断」に置き換え。専門医意見の「化学物質過敏症に特効薬は無く、治療には時間がかかる。」を曲解し、「有機溶剤中毒の治療法は無い。労災の休業補償(療養補償)は治療が対象なので該当しない。」とした、何一つ正解していない、あまりにも無茶苦茶な主張内容でした。
しかし、東京高裁はこの「予備的主張」のみを認め、第一審判決を破棄し、不当に一審原告の請求を棄却する逆転敗訴の判決を下しました。なお、第一審同様「有機溶剤中毒の業務起因性が認められる」「有機溶剤中毒の認定基準に合致する」「病状が継続している」事は認めています。また、「専門医の診断は信用できる。」「化学物質過敏症の検査は信頼できる。」など、化学物質過敏症(有機溶剤中毒の診断と誤った表現はされていますが)は肯定されています。つまり、「労災は認めるが給付は支給しない。」という酷い判決内容です。
2.国、司法、会社に対する思い
この「国」による、法律や憲法などの軽視は余りにも酷いものです。労災保険法の第一条には「労働者災害補償保険は、業務上の事由、(略)通勤による労働者の負傷、疾病、障害、死亡等に対して迅速かつ公正な保護をするため、必要な保険給付を行い、あわせて、業務上の事由、(略)通勤により負傷し、又は疾病にかかつた労働者の社会復帰の促進、当該労働者及びその遺族の援護、労働者の安全及び衛生の確保等を図り、もつて労働者の福祉の増進に寄与することを目的とする。」と規定されています。しかし、「国」はこの法律を無視した不当な運用をしています。労災保険の「支給・不支給」の判断は、通常は請求から1カ月程度、長くとも6カ月以内には決定されます。これは、労災保険法で定める目的(迅速かつ公正な保護)からすれば必然であるといえます。病名が「化学物質過敏症」であるという理由で、請求から12年が経過し、裁判で業務起因性が認められても、なお救済が実現しない本件事案は、明らかに異常で違法なものです。人権侵害も甚だしい。
司法について、第二審(東京高裁)の判示は論外ですが、第一審(東京地裁)も「化学物質過敏症」という病名を避けた(逃げた)ような印象を受ける内容になっています。この背景に何があるのでしょうか。。。。
会社は、和労基の求めに応じ、第一審の最終段階で「作業環境は違法ではない」という追加資料を提供しました。(労基署も会社も、「是正勧告」をいったい何だと理解しているのでしょうか。)会社は、損害賠償請求で敗訴しても、自分たちの違法行為を認めようとしていないようです。もう、この会社が正しい方向に軌道修正をすることは無いのだと思います。本当に残念です。
3.化学物質過敏症という病の苦しみ
化学物質過敏症とは「大量または長期にわたる化学物質への曝露後に、微量の化学物質に接触することで、多岐にわたる症状が現れる疾患」(1987カレンの定義)です。この病気から快復するには周囲の人々の協力が不可欠です。ですが、これが非常に難しい。仮に、100人が100種類の原因化学物質を使用していたとして、その人達が理解し協力してくれたとしても、その中の一人が一種類を少しだけ使用しただけで、全ての協力が無駄になってしまいます。すると、他99名の人達の協力も次第に得られなくなり、結局、孤立するしかなくなってしまいます。
また、近年「香害」が深刻化している事も事実です。せめて、学校や病院だけでも、正常な状態に戻せないものか苦慮しています。しかし、「化学物質過敏症は柔軟剤のニオイで体調が悪くなる病気」と間違った啓発活動を見かける事が多くなり、それは残念に思います。
化学物質過敏症の治療は、「原因化学物質の曝露を避けること」が基本です。発症後、ばく露を避ける事ができる環境で、いかに早く療養を開始できるかが重要です。療養開始の時期が遅れるほど、重症化し、回復までにかかる時間が長くなります。つまり、「早期対応、早期回復」こそが重要であり、労災補償においては「休業補償給付の早期支給」が必要なのです。
労災保険法全般の考え方からすれば、急性期の症状は「休業補償」や「療養補償」でカバーし、慢性化した症状は「障害補償」で支援するという、運用方法については理解できます。しかし、化学物質過敏症については一切の休業補償や療養補償を認めないともいえる第二審判決は、労災補償保険制度の基本理念に反したものであることのみならず、被災労働者の基本的人権をも無視した不当な判決であり、そのような判決を最高裁判所が認めることになれば、更に化学物質過敏症に対する「差別」が広がることになってしまいます。
そのような結論を断じて認める事は出来ません。また、有ってはなりません。
4.追記(2025年10月)
2025年10月2日付けで、最高裁第一小法廷(安浪亮介、岡正晶、堺徹、宮川美津子、中村愼)は本件上告に対し「棄却」の決定をしました。
真実・事実を捻じ曲げれば、どこかに歪(ひずみ)が生じ、その形は歪(いびつ)なものになってしまいます。本件確定判決の歪な内容は、到底、合理的に理解できる内容ではありません。
これの内容が審議すらされること無く、単に事務的に「棄却」と決定された事は、本当に残念でなりません。
本件は、業務により有機溶剤中毒を発症し、化学物質過敏症に悪化し、休業による療養を余儀なくされた事に対し、労災保険「休業補償」の請求を行ったものです。
確定した判決では、療養開始時点で既に回復していた有機溶剤中毒について「有機溶剤中毒は治療法が無く、療養を目的とする休業補償の対象とはならない」という判断を示しました。有機溶剤中毒の治療法については、第一審から通して、全く議論されることはありませんでした。また、第二審で中心的に議論された化学物質過敏症の治療法について、判決では触れられていません。
すなわち、請求外の前段階の病名について、合理的な根拠もなく「治療法が無い」と認定し、請求病名の療養を否定しているのです。
これは、明らかに歪な不当判決であり、原告が裁判で請求した主旨に向き合ったものではありません。しかし、原告の休業補償の請求が認められないことが確定してしまいました。あまりにも理不尽な結末となりました。
また、確定判決では、「障害補償として救済されるべき」といった内容の判示がされていますが、「原告の有機溶剤中毒は治癒している」と診断した医師は存在しないのです。14年以上も前の診断もされていない診断書を提出する事は不可能なので、結局は障害補償による救済を受ける事も難しい状況です。
裁判で、発病の業務起因性が認められ、現在も就業不能の状態が続いていると認定されても、一切の労災保険による救済を認めないとする不当な判決を最高裁は棄却し確定させたのです。
労災保険制度の意味とは、いったい何なのでしょうか。
安全と健康 Safety and Health「相談から」2025年4-5月合併号
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